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あれから1年。
ただただ早いな、と思います。
まるでついこないだの事の様に思い出されるあの日。
自分の日記としてこちらに振り返って残しておこうと思います。

1年経って、変わった事もまだ変わってない事もあります。
改めて犠牲者の御冥福を祈るとともに
行方不明者が1日でも早く見つかる事を願っています。

長くなったので日記は下の方に閉じております。


2011年3月11日。
あの時はまだ千葉県に勤めていて
地震のあった時間は普通に勤務時間。
地面が揺れていると気付き
その揺れが大きくなるまでに少し時間があった気がします。
揺れが収まるまで動かないべきか避難すべきか。
取り敢えず真後ろのホワイトボードを抑えてました。
避難する事になった時も何だか妙に冷静だった私は
先日行った「給湯室での火災発生を想定した避難訓練」の為に
地震時には危険だろう経路で逃げる人の背を追いながら
「トラックの横を通っては駄目!倒れるかもしれない!」
とパニックになってる人には聞こえない警告を発しながら駐車場に避難しました。

携帯を持ち歩いてなかったので携帯を見ている付近の人に
震源はどこですかと必死に訊いていました。
近所が震源ならいいけど、脳裏にあるのは東海地震ではないか?という不安。
東北らしい、という返事を聞いて
取り敢えず安否確認をするべき知人がいない事を確かめてから
東北までの距離を考えてぞっとしました。
関西に住んでいた小学生の時の阪神大震災を思い出したのです。
震度4程度で済んだ自宅でおおきい地震だったな、と寝直し
朝のニュースの映像で驚愕した遠い日。

1度目の地震の後、職場に戻るとあちこちで天井の石膏ボードが欠け落ちて
天井に穴が開いていたので、モップとコロコロを持って掃除。
ぽっかり穴が開いた天井を見上げていた時2回目の大きい揺れ。
モップとコロコロを掃除用具置き場に放り投げながらまた駐車場へ。
結局会社の管理職の人が何を話してるか、
揺れが続く中まったくざわめきで聞こえなかったけど
会社は仕事したい人はして、帰りたい人は帰って…
と流れ解散になったようでした。
電車は止まったるらしい、とも告げられてました。
自分のグループの作業員は皆帰ってしまったので
バスもあるし頑張ればあるいても帰れる私は
一応来週の出社時に危険がないようにネジ箱やら出しっぱなしの工具を床へ。
倒れやすそうなホワイトボードを予め倒したりして余震対策。
一緒に残ってくれた普段は無口な若い社員の男の子が
その日ばかりは妙に饒舌だったのが印象的です。
ちなみにその子は結局その日、自宅まで辿り着く事が出来ず
翌朝何とか帰った家の周りは液状化で滅茶苦茶だったそうでした。

事務資料を最低限まとめて、17時頃に退社。
無事だった事務棟のテレビを見ながら私を待ってくれてた後輩から
津波で大変な事になってるみたいですと聞き、初めて津波が来ていた事を知りました。
家までは歩いて1時間15分ほど。
これから交通機関も滅茶苦茶だし物の流通が滞って店も閉まるかも知れないから
まだやっているうちにお店で御飯でも食べようと飲食店へ。
食べてる間もずっと小さな揺れがやって来てました。
自宅に戻ると雑貨や洗面具はもちろんの事、玄関の姿見が倒れて壁をえぐってました。
ただ何故か非常に転倒しやすい兎の置物が
1匹たりとも人参の椅子から落ちてなかったのがうちの小さな奇跡でした。

それからは、終わらない余震で揺れてるか揺れてないかの区別もつかない日々。
計画停電で真っ暗な街。
携帯に流れて来るデマ。
お店の空っぽの陳列台。
ただテレビから流れて来る壮絶な映像が、それくらいは大した事ではないといっていました。

今は千葉を離れましたが東海地震が心配される地域へ。
私が学生のころから、いつ地震が来ても可笑しくないと言われています。
たぶんいつか地震は来るんだと思います。
来た時にどうするか。
どんな土地も建物も制度も、必ず自分を守ってくれるとは限りません。
大切なのは日ごろからリスクを想定して、どうやって身を守るかを考えておく事。
あの日の教訓を忘れずに、日々向き合っていこうと思います。





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